●古くから瀬戸内の良好として栄えた「坂越」の街並みから、流紋岩でできた西播丘陵が「沈水」し、急斜面が直接海水に浸蝕されて形成された、播磨灘の素晴らしい岩礁・断崖・海岸線風景の赤穂御崎までを探訪しました。コース:JR・坂越駅~坂越・街並~大避神社~丸山海岸・県民サンビーチ~赤穂御崎・伊和都比賣神社~(海浜大橋)~赤穂城跡~息継井戸・花岳寺~JR播州赤穂駅 [約13km]
【国土地理院発行1:25000地形図・「相生」・「播州赤穂」使用】
◆赤穂道○「西國街道」の相生から赤穂へ通ずる道で、赤穂城主・浅野家が「西國街道」に取り込ませようと奔走したが取り入れられませんでした。[上掲・地形図・北端の『緑破線』]
○元禄14年(1701)3月、浅野長矩(ながのり)の「江戸城内刃傷」を知らせる早駕籠が走った道で、明治時代に北側に新道が設置され、現在国道250号線となりました。◆坂越浦
【奥藤家】
○古来より良港として栄え、江戸時代は千種川の高瀬舟舟運並びに瀬戸内千石船舟運の港町として繁栄しました。かつて、商家・人馬問屋・高瀬宿・船宿などが30軒ほどもあり、17~18世紀には大型廻船31艘・小型廻船15艘の屈指の港となりました。西国大名の参勤交代にも利用され、「赤穂の五万三千石、坂越の二十万石」ともいわれたぐらいでした。
*「門口」とは関所のあった辺りのことです。
○「坂越浦」は、明治中期まで「北前船」を中心とする海運業者の拠点として栄え、海運業者は「赤穂の塩」を積みこんで坂越を出港し、瀬戸内海西部、日本海で荷売り、荷買いを繰り返して、最期は坂越浦には貴重な石材を積んで帰港し、航海安全の守り神である大避神社に寄進しました。「船祭」は重要無形民俗文化財に指定されています(平成24年)。

【坂越の街並】
○廻船問屋「奥藤家」[本陣・大庄屋・船手庄屋を兼ねた]には、約300年前に建てた建物が現存しますが、慶長6年(1601)より酒造を開始し、現在は酒造業を始めて14代目で、当主は18代目ですが、塩田開発も昔は行っていたそうです。
・「本陣」・酒蔵(半地下式蔵もあり)は寛文年間(1661-1673年)の建立です。
○かつては1000 戸を超えた「坂越浦」の戸数は、海運業の衰退により、明治中期以降人口は減少し続け、現在は500 戸程で、そのほとんどは地元中小企業のサラリーマンのようです。 ◆大避(おおさけ)
神社
【大避神社】
○祭神は大避大神(=秦河勝)・天照皇大神・春日大神の三神で、本殿は明和6年(1769)、拝殿・神門は延享3年(1746)再建されました。延喜式内社で、聖徳太子四天王の一人・秦河勝を祀りますが、御旅所のある「生島」に墳墓があるとの説が有力です。
・聖徳太子の死後、皇極3年(644)、蘇我入鹿の迫害を逃れて西航し、坂越湾沖で難破して、泳いで流れ着いたのが「生島」で、その後、この島に住み、島の対岸にある坂越浦・千種川流域の開発に尽しました。
・大化7年(647)に秦河勝の没後、坂越浦では天変地異が続き、これを畏れた地元民は、「生島」の中央部に河勝の円墳を造成し、坂越浦に「大避神社」を建立し、「生島」を神域として立ち入り禁止にしたと伝わります。 ○旧暦「9月12日・生島上陸」の説より、これを当初、「坂越の船祭り」祭日にしていましたが、現在は10月第2日曜となっています。「大阪の天神祭」・「広島の宮島祭]とともに瀬戸内三大「船祭」の一つとして、平成4年に「国選択無形文化財」に指定されており、享保7年(1722)の「船絵馬」は最も古い船絵馬です。
○海岸部の築地には、波止石垣が各民家に続いて築造されていて、台風などの風波対応が図られています。
【波止石垣:坂越・築地海岸】
◆生島(いきしま)
○周囲1.63kmで、「生島樹林」として大正13年に国の天然記念物に指定されており、島全体が大避神社の所有であり、神域となっており、暖地性原生林で覆われています。

【生島】 ◆赤穂・丸山海岸~御崎海岸 ○築地海岸よりウネウネと海岸沿いに進むと、「県民サン・ビーチキャンプ場」に着きます。広々としたキャンプ場を兼ねた砂場と草地です。目の前の播磨灘には家島諸島やその他の島々が点々と見え、将に「瀬戸内海国立公園」の多島海風景が望まれます。

【多島海風景】
○さらに、海岸沿いにウネウネと進むと、その海岸中景・近景の眺望佳く、奇岩や節理を含んだ磯を含む、岬と入り江が連続した変化のある景観が見えてきます。◆赤穂御崎
【流紋岩質凝灰岩・流紋岩の岩礁:赤穂御崎】
○千種川河口東方に立地し、主として流紋岩質凝灰岩と流紋岩から成る奇岩・節理等の崖と磯が続く岬で、家島諸島や小豆島を望める景勝の地で小半島の南端で、半島の山頂と沖合いの御前岩に小さな灯台があります。海岸線に沿って遊歩道が整備され、沿道には「大石名残の松」、伊和都比賣神社、一目五千本の桜林などがあり、日本百景の一つとなっています。西側一帯はかつて赤穂塩(天塩)の採れる塩田でありましたが、現在は埋立てられて「赤穂海浜公園」という一大遊園地となっています。 ◆伊和都比賣神社
【伊和都比賣神社】
○御崎より海岸を少し上がると「御崎明神」とも称され、赤穂の祖神である延喜式内社が祀られています。天保3年(1683)・浅野家によって現在の鷗護岩(おおごいわ)に面した岩上[八丁岩]に社殿が建立されましたが、昭和に本殿以下、社殿などを100m北の現在地へ移しました。
・祭神は伊和都比賣大神で、伊和津姫御崎前明神、三崎大明神ともよばれ、播磨国一宮の「伊和大神」即ち「大穴牟遅神」の比売神とも云われ、豊受大神(伊勢外宮)と同神で、伊和大神の妻、宗像三女神の奥津嶋姫命[多紀理毘賣命]との説もあります。かつて、日本海海戦の勇将東郷平八郎元帥を始め、歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚く、艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝し、現在でも船員漁師などが航海安全と大漁祈願を行います。
・若き男女による姫神信仰も盛んで、縁結び/恋人を得るご利益のある「姫守」をうける人が多いそうです。◆赤穂城跡 

【赤穂城跡・二之丸門・城郭配置】
○伊和都比賣神社から東西に広くて真直ぐの道路を3キロほど西へ進むと「赤穂海浜大橋」を渡りますが、この道路から南(海)側は塩田であった所です。現在は、結ったりとしてた住宅地になっています。この橋を渡ると右手に赤穂城跡が見えてきます。
○赤穂城は、千種川河口に15世紀中葉に播磨守護大名・赤松満祐一族・岡豊前守が築城し、戦国時代末期に宇喜多氏(刈屋城)、江戸初期に池田輝政が領有しました。池田輝政は三大水道の一つ「赤穂水道」を敷設しましたが、正保2年(1645)・常陸笠間から浅野長直が入封(53,000石)し、13年かけて完成させました。
○城は「輪郭式」(本丸中心に二の丸が同心円状に展開)、「梯郭式」(三の丸が本丸の正面に広がる)の三重の曲輪から成る「平城」に整備され、天守台が築かれました。元禄14年(1701)・江戸城内「刃傷事件」で当家断絶となり、城の「受取り」には親しかった龍野藩・脇坂氏が出向きました。その後、下野・烏山から永井氏が転封後、宝永3年(1706)備中・江原から森氏が明治維新まで十二代封入されました。「宝永年間絵図」などでは、町場に比し、武家屋敷の面積が広くなっていますが、街並には、本瓦葺き、白虫籠窓、低ツシ二階、蔀(しとみ)戸(格子と板製)、「赤穂水道」復元個所等が遺存されています。*「厨子二階」:(つしにかい)2階の天井が低く、虫籠窓がある。近世後期に完成し、明治後期まで一般的に建築された様式で、中二階ともいう。
◆息継ぎ井戸
【息継ぎ井戸】
○赤穂藩主・浅野長矩(ながのり:長直孫)の切腹を知らせる急使・速水藤右衛門と萱野が赤穂城下に到着し、赤穂藩筆頭家老・大石良雄の邸へ向かう直前、長旅の後この井戸で水を飲み、一息入れてから登城した故事にちなみます。しかし、一説によると、二人が飲んだのは「赤穂の上水道」の水だといわれています。赤穂駅から500mほど南方にあります。
◆赤穂上水

【千種川・旧流は西側山裾・赤穂城下を流下していた:富岡】
○江戸「神田上水」、広島「福山上水」と並ぶ「日本三大上水」の一つで、江戸時代では最先端であったと伝えられますが、上水道が引かれたのは赤穂藩の立藩直後で、17世紀の遺構が出土しています。
○赤穂城下は、元来、干潟・干拓地で、井戸を掘ると塩水が出て、生活用水の確保が困難であったので、赤穂藩では1614年に工事を開始し、千種川を約7km遡った中山から開渠[蓋なし溝]により、城下まで導水しました。農業用水と明確に区別し、周りに牛馬を通さない・汚さないようにと「触れ」が出たそうです。
○城下町北端の「百々呂屋裏大枡」(ももろやうらおおます)*という二間四方の石組枡によりろ過後、暗渠で城内や武家屋敷、城下の庶民まで戸別に上水道を敷設し、元和2年(1616)に完成し、昭和19年まで利用していたそうです。
【百々呂屋裏大枡・*復元物街中展示:赤穂市史】◆花岳寺 (台雲山:曹洞宗・新西国第31番霊場、瀬戸内観音第7番霊場)
○赤穂藩・歴代藩主浅野家・永井家、宝永3年(1706)から森家の菩提寺となり、また大石家ほか義士の香華院*ともなっています。
【臺雲山花岳寺】 *(こうげいん)先祖累代の墓碑・霊牌(位牌)を安置し常に香華を手向ける寺院○正保2年(1645)・浅野長直が常陸笠間(53,500石)から赤穂へ転封になった時、浅野家の菩提寺として建立され、開山は秀巌龍田大和尚(薩摩出身、寛文3年(1663)81歳で没、近江・大津の青龍寺5世)です。
【旧大石家老宅】●瀬戸内海運で雄飛した「坂越」、多島海風景が将に絶景の「丸山海岸」、奇岩・節理の「赤穂御崎」、赤穂浪士討ち入りで有名な「赤穂城」跡と、夫々に歴史と自然の深遠さを訪ねた徒歩巡検となりました。【参考資料】 1.柳 哲雄:「鎮守の海としての坂越湾生島周辺海域」、(独)科学技術振興機構、2010.
2.赤穂市教育委員会事務局生涯学習課:「赤穂上水道」、2010.
3.橘川真一:「播磨の街道・中国行程記を歩く」、『姫路文庫10』、神戸新聞総合出版センター、2004.
4.橘川真一編著:「兵庫の街道いまむかし」、神戸新聞総合出版センター,1995.
5.富岡儀八:「城下町赤穂」・『地形図に歴史を読む』(1)、大明堂、1968.
【2010年9月21日探訪】
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- 2013/02/24(日) 15:18:50|
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●「兵庫」の地はかつて、古代・平安時代には大輪田泊として栄え、平清盛にる明貿易の港「兵庫津」として発展、束の間の都「和田京」が築かれようとした。また、戦国時代末期には、池田恒興により築かれた「兵庫城」が僅か2年ほどで、その「城下町」が陣屋町となったが、「兵庫津」の港町・西国街道の宿場町としての基盤が造られた。それらの事績をたどる: ◆兵庫津・大輪田泊 中世のHub-Port ・開港は天平年間(729~749)で、行基が設置した「摂播五泊」(室生・飾磨(福泊)・江井崎(魚住)・河尻(神崎)の一カ所「大輪田泊」である。
・応保2年(1162)、「平治の乱」に勝利した平清盛は土地調査に名を借り、摂津國八部郡の荘園を押領し、「大輪田泊」も管理下とした。
・仁安2年(1167)、清盛は「太上大臣」に就任し、嘉応元年(1169)・清盛は「太上大臣」職と六波羅館を重盛に譲り、上祇園町の館に移居した。
・嘉応2年(1170)、約300年の鎖国状態を抜けて、清盛が宋船を直接入港させ「(密)貿易」を開始した。淀川の河口の港は水深が浅く、貿易船の出入には不向きであった。
・承安3年(1173)~安元元年(1175)、風波による浸食が大きく、清盛は人口島「経ヶ島」を築造したが、以後も定期的な修築が必要とした。
・弘安6年(1183)、善通寺大改修費用の調達のため、「艘別銭」を当津入港船から徴収することが認可されたが、初の他所のための税であり、朝廷と幕府の両方の裁許を得ている。
・12世紀末、僧重源は朝廷から津修築を任され、「入港税」も徴収した。
【大輪田泊付近推定図:足利原図】 ◇応永8年(1401)、平家滅亡後、博多にあった日宋貿易拠点を奪還するべく、足利義満(法名・道義)は明帝に国書と献上品を送り、翌年答礼使が返書を齎し、同4年に「勘合貿易」の拠点港となった。
・文安2年(1445)の当「津」へ14旧國の106港から4,000隻以上の船が入港しており、船籍地の最多は「地下」(ぢげ=兵庫)258艘、以下牛窓(133)・由良・尼崎・室津・瀬戸田・網干・淡路三原・尾道で堺は無かった。数十石~2500石積船が往来していたようだ。
[「兵庫北関入舩納帳」*による:(*)東大寺による北関の関銭(「置石」(出船税)・「升米」(入船税))の徴収記録。30年後、興福寺も「南関」を設置して関税「商船目銭」を徴収した]
◇『兵庫北関雑船納帳』(東大寺文書:文安元~2年、小型地回り船記録)では、「津」全体で年4000艘を超える船が出入りし、106の船籍港から搬入品目は64種、塩が最重要で米・麦・材木・壺・鉄・海産物等は上位を占めていたが、入港船年間458艘の船籍地は「地下」(ぢげ)で、・西宮・尼崎・木津(大阪)・岩屋・洲本・引田(讃岐)・室津の順で京都・堺もあった。
【和田京(東半)・雪御所推定図:足利原図】 ◆和田京 [和田都わだのみやこ] (「福原京」ではない) ・治承4年(1180)6月2日、平清盛は安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇を奉じて平安京を出て、その日は大物(尼崎)に泊り、翌3日に福原に到着した。福原には平家一門の邸宅が並び、南方の大輪田泊(船泊ふなせ)は元・菟原(うばら)郡宇治郷[後に改編、八部(やたべ)郡:「和名抄」(承平年間[931-938]刊)]の旧湊川左岸(東側)にあった。
・同年6月に福原入りより構想された新京の名は「和田京」(輪田京)だったが、その案について喜田貞吉はRを左京の一端とし、山陽道HJを京域計画を条里地割に則って推考した。足利はVUを左京の東端とするほぼ東西南北方向に沿った案を推想した。福原移住の月には数回会議が持たれたようだが、平安京・平城京よりも遥かに平地狭く進展しなかったと考えられている。
・同年11月まで、湊川上流の天王川と石井川に挟まれたB地域を、清盛隠居邸[雪之御所]を「本皇居」と称して安徳天皇の内裏として使用され、その後その北側A地域に「本皇居」が新設されたようだ。高倉上皇は7月末まで頼盛邸を御所とし、後に重衡邸に移動した。旧荒田村荒田八幡神社(権現の森:E)の高台一帯を該当地として推定されており、後白河法皇は教盛邸を在所としたと推定されている。
・同年11月中旬に内裏は完成したが、同26日に安徳天皇他が「帰京」してしまった。
・同年8月・源頼朝が伊豆で挙兵したこと、延暦寺から圧力がかったこと、高倉院が重篤に陥ったことなどがその理由とされている。
・IJから南西方向に向かう山陽道から離れて大輪田泊を目指した2本の道が存在していることでも新京計画は早期に消えたと考えられている。
・治承5年(1181)閏2月4日に清盛が他界した。
・近年、神戸大学病院敷地、上祇園町などで発掘調査され、掘立柱・堀・庭園池・導/排水路・石垣等が発掘されている。
◆兵庫城址 (兵庫区中之島[摂津国兵庫津]周辺)
・摂津国兵庫津(兵庫区中之島)周辺にあった城で、尼崎藩時代には「兵庫陣屋」と呼ばれ、奉行が置かれ、明治時代には兵庫県庁があった。通称・池田(古)城、片桐陣屋、兵庫陣屋ともいわれた。
・城郭構造は平城・海城で、天正9年(1581)池田恒興 が築城、主な城主には池田恒興、片桐且元、明和6年(1769)に廃城となった。
・概要:「兵庫港」は、江戸時代まで良港として栄えた「兵庫津」の跡で、平清盛が遷都した「和田京」(福原京)があった。南北朝時代には戦いの中心地、北側には山陽道が通り、海陸の物資の集散地で交通の要衝でもあった。
・「兵庫城」が城として機能したのは短期間しかなくで、明治時代以降は兵庫港の大規模な改修があり、かつ都市化により遺構は失われた。
・歴史:天正7年(1579)11月、有岡城の戦いで、荒木村重が織田信長に謀反を起こしたが、結局有岡城は落城した。
・天正8年7月、「花隈城」へ落ち延びた荒木村重と「花隈城の戦」となり、織田信長軍の武将・池田恒興(信輝)・輝政父子の活躍により、「花隈城」も落城した。その功により信長は恒興に兵庫の地を与え、摂津国大守とした。
・天正9年、恒興は「花隈城」には入城せず、その石材等を利用して湊川の支流が縦横に走る「兵庫津」に築城し(兵庫城)、「総構型」に近い城下町構造として、表道に面して短冊形の町割りを造った。
・池田恒興は2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり、片桐且元が代官として入城した。呼称も「兵庫城」から「片桐陣屋」と称されるようになった。
【兵庫城推定域】
・天正13年、兵庫津を秀吉は兵站港として、紀州攻めに利用した。
・天正15年、同様に、秀吉は薩摩攻めに利用した。
◇慶長12年(1607)の「朝鮮通信使」は館の周りの堀、三重門を記録に残していた。江戸時代の12回の「朝鮮通信使」の中、11回は「兵庫津」に寄港している。尼崎藩は「朝鮮通信使」の接待役を命じられ、港の整備等を行った。
・元和元年(1615)大坂城の落城後は尼崎、「兵庫津」一帯は尼崎藩に組み込まれ「兵庫城址」には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。
◇寛永13年(1636)、「湊口惣門」(東側)が湊八幡神社近くに、「柳原惣門」(西側)が蛭子神社付近に設置された。
・明和6年(1769)、「上知令」*により「兵庫津」一帯は天領となり、兵庫城址の陣屋が大坂町奉行所の与力・同心の「勤番所」に改変。
注)*「上知令」:1840~70年代に江戸幕府や明治政府が発した土地没収命令。上地令とも表記
◇慶応4年/明治元年、「兵庫鎮台」が設置され、それが「兵庫裁判所」更に初代「兵庫県庁」となり、県令に伊藤博文が赴任した。
・明治6年、残存した外郭の土塁を市街地開発で撤去された。
・明治8年、兵庫港の大改修が行われ、兵庫新川運河の造成で「城跡」は破壊された。
◇城郭:「兵庫城」は、湊川の支流が多数走っているので天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備され、「花隈城」の石材などの一部を用いて天守閣を備えた城を築いたようだ。
・兵庫城の入口である「柳原総門」は兵庫の町の西北部、「扇の要」にあり、総門を包み込むように、福海寺が配置され枡形を構成していた。
・中央に堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡のような約140㎡の広さで、堀幅は3mで石垣と土塁で防備していたと推定されている。
【摂州八部郡福原庄・兵庫津絵図・元禄9年(1696):神戸市博物館】
◇城北に城下町が形成され、街道筋は多くの社寺を配した寺町となり、北に佐比江、南に須佐入江、周辺は土塁と逆瀬川で囲み、「兵庫津」の全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市であった[『摂州八部(やたべ)郡福原庄・兵庫津絵図』(元禄9年(1696)作製)・『兵庫津絵図』(元禄4年刊)]。
・三川口町・門口町・船大工町・鍛冶屋町・磯之町・出在家町など現在も残る町名も記載されている。
・宝暦2年(1752)、町の外側に延長1364m、幅3.6~14.5mの高い土堤が築かれ「都賀堤」と呼ばれていた[『兵庫津外輪堤麗絵図』]。
【参考文献】1.橘川真一他編:「ひょうごの城」、神戸新聞総合出版センター、2011.
2.歴史資料ネットワーク監修:「兵庫城築城のころの兵庫」、神戸市兵庫区まちづくり推進部、2010.
3.神戸新聞「兵庫学」取材班編:「ひょうご全史」(下)、神戸新聞総合出版センター、2006.
4.兵庫県の歴史散歩編集委員会編:「兵庫県の歴史散歩」(上)、山川出版社、2006.
5.足利健亮:「清盛時代の大輪田泊と福原・和田京」・『歴史のなかの神戸と平家』、神戸新聞総合出版センター、1999.
6.高橋昌明:「福原の夢・清盛と対外貿易」・『歴史のなかの神戸と平家』、神戸新聞総合出版センター、1999.
7.藤田明良:「『入船納帳』と兵庫津の街並み」・『歴史のなかの神戸と平家』、神戸新聞総合出版センター、1999
【「関西地図の会」第219回行事・2012年3月18日実施】
- 2013/02/22(金) 22:21:53|
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●高槻北部の古曽部地域の小さな活断層が東西に走る下部段丘下には、平安時代より良質の湧水が出でて、伊勢や能因法師ら歌人が挙って居を構え、歌道文化が華開いた。近世には、百数十年に亙り古曽部焼の窯が五十嵐家によって設営され、茶器から日用雑器まで広く焼かれ、江戸時代には徳川譜代・永井家による、大坂の艮の「鬼門」を扼した城下の繁栄と共に、「高槻」の一時代を画した。今回はT氏の案内でそれらの跡を巡る機会を得た。コース:
JR高槻駅~花の井~古曽部焼窯跡~[古曽部防災公園] ~不老水~伝能因法師塚・文塚~日吉神社~伊勢寺~上宮天満宮~昼神車塚古墳~[JR高槻駅]~カトリック高槻教会~野見神社~高槻天主教会堂跡~[しろあと歴史館・歴史民俗資料館]~[城跡公園]~本行寺~光松寺~理安寺~阪急高槻市駅(約10㎞)
◇花の井 (別所本町)
・平安時代中期の歌人・能因法師が使用したとされる名水の井戸跡で、その石組のみが遺存(?)しているが、東西に走る比較的狭い範囲の「古曽部活断層」の下部段丘下に湧き出ていたと考えられ、別名「山下水」とも呼ばれていたことが、そのことを示しており、能因法師の和歌の中にも詠まれている。
・「小倉百人一首」には、『嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり』の和歌が収められているように、平安時代中期の著名な歌人で、三十六歌仙の一人であった能因法師は、晩年この地に移り住み、日常生活を過ごすための水を得ていたのが、この「花の井」と呼ばれている井戸であるとの伝説があり、能因法師の短歌に、「山下水」として登場する。井戸跡の傍にある小祠は能因法師を祀っているともいわれる。

【「花の井」跡】
・能因法師の歌にもあるように、彼はこの井戸の水面に写った自分の姿を見て、老いたのを悟り、不老不死の泉を求めて別の井戸「不老水」を見出した・・ということか。高槻市史跡になっている。
◇古曽部焼窯跡 (古曽部町)
・近世の地窯「
古曽部焼」は、高槻が全国に誇る文化遺産の一つで、江戸後期18世紀末から明治末年まで百数十年間続いた。窯が閉ざされて70年を経過しているが、「
古曽部焼」の作風は初代五十嵐新平から五代目栄次郎まで、京焼の影響も受けて独特の「
古曽部焼」の境地を形成した。


【古曽部焼(2点):高槻市】
・庶民、茶人や文人にも愛され、主に日用雑器の飯茶碗・小皿・湯呑・酒器・鍋などが焼かれ、その合間には抹茶碗・水指・菓子鉢・香合・茶托などの茶器や、花瓶なども焼かれた。
・「
古曽部焼」は、遠州七窯の伝承は別として、焼き物が高名なわりには、確かな史料が殆どないようで、新平が京から古曽部村へ帰り、別所村との境界付近で陶窯を開いたのは、40歳の頃・寛政2~3年頃(1790~1)とのことである。
・三代信平(明治15年没)は、明治元年には、当時京都の画家田能村直入の自筆画の抹茶茶碗1000個を一度に造ったとか・・。直入の還暦の祝いの配り物で、有能な陶工だった弟・弁蔵の助けをかり、何人かの弟子職人も存在したようだ。弟・弁蔵は、明治37年80余歳で没した。弁蔵は親子二代を補佐した。
・明治の中頃、「
古曽部焼」に使う陶土は真上から運ぶのに四斗俵が40銭もかかり、砂気を除くと使える土は三分の一。出来上がりの窯元値段が、茶椀10個一括りで僅か30銭で、需要が多くないと成り立たない営業であった。茶器類のほかに火鉢、手あぶり、油つぼ、水差しなどの日用雑器が多くみられるのはこのためで、これが生産の主流を占めていたようだ。これは特定の流通路をもたない地焼窯の宿命か。窯は明治末年に閉鎖された・・
・「
くらわんか、すわんか月のうつる汁」の淀川の枚方宿付近での「くらわんか皿」も、料理屋注文の一つで、料理屋「天正」の注文記には、「三島火鉢弐十本」以下、組物を含む2800余点の用器が一括して記載されていた。

【近世高槻付近図:高槻市史(原図:20000分の1)】
◇伝・能因法師墳 (古曽部町)
・当墳は径約15m×25mの円墳に似て、「
能因塚」で知られているが、平安時代中期の歌人・能因法師の墓と伝わる。法師は、本名・橘永愷(たちばなのながやす)で、永延2年(988)長門守橘元愷の子として生まれ、女流歌人・伊勢(939?没)の作風を慕いつつ、当時の第一人者・藤原長能に歌道を学び作歌に励んだ。墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)、高槻城主永井直清が建立し、碑文は儒学者林羅山の書。

【伝能因法師墳】
◇不老水 (古曽部町)
・三十六歌仙の一人に挙げられた、平安時代中期の歌人・能因法師は「
花の井」の水面に写った自分の姿を見て老いたのを悟り、不老不死の泉を求めて別の井戸「
不老水」を見出した、あるいは煎茶に使用したと伝わり、この「不老水」の名声が高かった頃、「大阪府全誌」(大正11年発行)に「寒冽にして茶に適し、その名遠近に喧傳して、普く茶客の知るところなり」と記載されていて、名水スポット・大阪府内五ヶ所の一つに選ばれていた。
・この地も「
花の井」と同じく、比較的狭い範囲の「古曽部活断層」の下部段丘下で、現在も透明な水が湧出しているが、「飲用不可」とされている。

【不老水(井戸)】
◇文塚 (古曽部町)
・能因法師が死期を前にして吟稿を埋めたとされる場所で、現在は住宅・農園に囲まれた地である。嘉永2年(1849年)に、能因法師の死後約800年も経ってから山藤辰政がここに顕彰碑を建てたといわれているが、その根拠は不明である。
◇日吉神社 (古曽部町)
・由来は定かではないが、大津市坂本の山王総本宮日吉(ひえ)大社(現在は「ひよしたいしゃ」)を勧請して建立された神社で、戦国時代に祀られた社。古曽部の段丘上の高台に鎮座し、この地区の守護神として守られてきており、高槻市街から淀川方面の眺望が佳い。
・天正元年(1573)に、元・摂津池田家家臣・荒木村重は池田家臣から三好家家臣、更に織田家家臣に移り、天正2年に伊丹市を攻略して、その功により摂津守に任じられ、その頃、日吉大社を勧請して当社を建立した説もある。
◇伊勢寺(曹洞宗・金剛山象王窟(しょうおうくつ):奥天神町)
・聖観音像を本尊とし、寺伝では「三十六歌仙」の一人で平安中期の女流歌人・伊勢の晩年の住居跡に建ち、天正年間に高山氏の兵火で焼失したと伝わっている。

【伊勢廟堂】
・「伊勢廟堂」は本堂の西側にあり、碑は慶安4年(1651)、高槻城主・永井直清が建立。碑文は幕府大学頭・儒学者林羅山の書。直清は、その前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と寺名を結びつけた伝承をもとに顕彰したとか・・・。

【伊勢寺・山門】
◇上宮天満宮 (天神町)
・南向きのかなり長く急な参道を上り詰めると、その前方200m程のところに拝殿が見える式内社で、旧社格は郷社だが、菅原道真を主祭神とし、武日照命・野見宿禰を配祀する。
・菅原道真[延喜4年(904)没]を祀り、大宰府に次いで二番目に造営されたという古い由緒がある。社伝によれば、正暦4年(993)5月、勅使・菅原幹正が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、「贈左大臣正一位」の詔を伝え、菅原道真の御霊代と同自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。幹正は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする・・

【長い急坂の参道:上宮天満宮】
●元々、当地には延喜式神名帳に記載される「野見神社」(現・摂社「野身神社」)があり、後になって道真を祀る「天満宮」が創建され、「野見神社」がそこへ吸収されたものと考えられており、「摂社野身神社」は野見宿禰の墳墓とされる小墳丘の上にある。

【野身神社】
●永禄11年(1568)・芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構え、天正6年(1578)・高槻城主のキリシタン大名・高山右近が当社に火を放った。同10年・「山崎の戦」の際、豊臣秀吉は当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。秀吉は戦勝に感謝し、同正18年・社地を寄進し社殿を修造した。江戸時代には、高槻城主・永井直清が拝殿や石鳥居を建てたと伝わるが、明治12年・「野身神社」に改称され、郷社に列格した。第二世界大戦後に、元の「上宮天満宮」に復したが、平成8年・放火により本殿を焼失し、平成14年に日本初の竹製本殿として再建されている。

【竹製屋根の本殿】
◇昼神車塚古墳 (天神町)
・「上宮天満宮」の南東に隣接する地に、全長60m・後円部径30m・同幅40mの前方後円墳が遺存している。「車塚古墳」は日本の古墳の一般名称で、各地に同名の古墳があるため地名を頭につけて呼称されている。近畿には、久津川車塚古墳(城陽市平川)・千歳車塚古墳(亀岡市千歳町)・大住車塚古墳(京田辺市大住)・禁野車塚古墳(枚方市宮之阪)・牧野車塚古墳(枚方市小倉東町・以上の5基は全て国史跡)・富木車塚古墳(高石市西取石)などがある。
・当墳の真下を交通量の多い幹線道路がトンネルとして通過している、珍しい都市の中心部にある古墳である。前方部の発掘調査により犬や猪、角笛(つのぶえ)をもった狩人などの埴輪が出土した。現在、前方部は復元・整備され、複製復元埴輪を北西側テラス部に陳列している。古墳時代後期の6世紀中頃までの築造と考えられており、1979年調査で横穴式石室が確認されたが、後に破壊された。野見宿祢墓との説もある。

【昼神車塚古墳:北西テラス部の復元埴輪列】
◇高槻天主教会堂跡 (大手町)
・キリシタン大名・高山右近は、天正元年(1573)父・飛騨守とともに高槻城に入り、城の拡張等とともにキリスト教を厚く保護。家臣・領民へ布教を進め、一時高槻は、京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心であった。天正2年(1574)、拠点として城内の現・野見神社付近に父・飛騨守が天主教会堂を建てた。神社東方の発掘調査では、教会に隣接していたキリシタン墓地が、厚さ2mに及ぶ盛土の下から発見され、棺の蓋板に墨書された「二支十字」(十字の縦線の上部に横線を付す)や死者の木製ロザリオは発掘資料としては日本最古で、宣教師フロイスの記録を裏付けている。

【高山右近天主教会堂跡碑】
◇野見神社 (野見町)
・元・上宮天満宮付近にあった式内社「濃身(のみ)神社」が移ってきたものとみられており、9世紀末、祭神のお告げにより疫病がおさまり、人々の信仰を集め、古くは「牛頭天王社」と言われていた。
・当社は奈良時代、濃味(のみ)郷の鎮守で『延喜式』*式内社であり、高山右近が高槻城主のころ、神社が一時この地を追われ、右近の父飛騨守が「もと神の堂ありし処」(フロイス『日本史』)に高槻天主教会堂建てた推定の地である。
・江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記されており、祭神は野見宿弥と素戔嗚尊である。
●境内には、高槻藩永井家九代藩主・直進が初代・直清を祭神に勧請して祀る「永井神社」があり、「唐門」がかつての城門であり、高槻城を描いた絵馬が奉納されている。
*「延喜式」:格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つで、延喜5年(905)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、延長5年(927)に完成した。その後改訂を重ね、康保4年(967)より施行された。◇高槻城跡 (入江城:大手町)

【高槻城跡(青線は濠跡):高槻市しろあと歴史館】

【高槻城跡・青線は濠跡・水色線は城郭:高槻市】
・文献上の初見は、大永7年(1527)の「桂川原の戦」で山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録であるが、天文22年(1553)、芥川山城に三好長慶が入城して、高槻城は支城となり、入江春継が城主となった。永禄7年(1564)に長慶が亡くなると、三好三人衆の一人・三好長逸がこの地域一帯を治めていたが、永禄11年・織田信長が摂津に侵攻して、芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城的に降伏した。
・永禄12(1569)年1月、「本圀寺の変」で15代将軍・足利義昭の住む屋敷を襲撃する時に、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し自滅したが、芥川山城主・和田惟政が活躍し、信長より高槻城も与えられ高槻城を本城とした。和田惟政もキリスト教のよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたが「白井河原の戦」で戦死し頓挫した。
・その後、高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576)に教会を建設、天正11年(1583)・修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動を活発にしていた・・・。
・天正10年6月に「本能寺の変」で信長が討たれると、羽柴秀吉は大坂城築城に着手し、右近は天正13年に船上城へ転封され、高槻城は秀吉の直轄領となったが、同年末には丹波亀山城へ移っていた。
・高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが、「関ヶ原の戦」後は徳川氏直轄地となって徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」、翌年の「大坂夏の陣」で高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。
・元和元年(1615)6月に内藤信正、元和3年に土岐定義が城主となって、城は大改修され、松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2年(1649)に永井直清が城主となった。直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注ぎ、永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至った。
・明治4年7月、廃藩置県により廃城となり、同7年に破却が始まり、向日町~大阪間の鉄道敷設用材として石垣などが利用された。同42年~昭和20年は、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯し、その折の煉瓦製正門の両柱とその前に立つ「歩哨」立番所が遺存されている。
・昭和22年に市立第一中学、同26年に府立島上高校が設置された。府立高槻南高校と府立島上高校が統合されて設置された槻の木高校敷地は本丸跡にあたるため高槻城跡の石碑が建てられている。◇本行寺 (日蓮宗・常智山:大手町)
・慶安4年(1651)、高槻藩初代城主永井直清が平癒祈願をし、叶ったことから本堂を建立し、以来、高槻城主の祈願所として庇護を受け、本堂正面には、十代藩主・永井直興の子・直寛の書「唱導殿」と記した大きな額が掲げてある。
【本行寺・山門:元高槻城高麗門】
・創建年月は不詳だが、北方・大蔵司村付近に、文武天皇時代の豪族の氏寺として創建された「岡本寺」があったと伝わり、その寺跡に日蓮宗に属する寺院として創建され、当初は「本照寺」の名であったとのこと。
・戦国時代には三好元長、細川晴元らの崇敬により隆盛を極めたが、「法華一揆」、「天文法華の乱」により焼失した。その後、三好長慶により「毘沙門堂」として再興されたが、高山右近による焼討ちで日蓮聖人像(祖師像)のみが住職により備前国に逃れ、後に高槻に復帰した。
・創建地への復帰・元の寺号の呼称は許されず、慶長元年(1596)、現在地に再建され、寺号を「常智山本行寺」と改称して、今位置に至っているとのことである。
・境内には、本堂のほか、妙見堂、大黒殿、客殿、鐘楼などがある。◇光松寺 (西山浄土宗・霊瑞山:大手町)
・「本行寺」の北隣に位置し、寺伝では創建の時期不詳だが、阿弥陀仏を本尊とし、かつて高槻城内にあり、元和年間(1615-24)に行われた高槻城の大改造に伴い、現在地へ移転したとのこと。
・当地域は城の巽(東北)方向・「鬼門」でもあり、門前は城下唯一の「寺町」地区となっている。◇理安寺 (浄土宗・起行山:京口町)
・高槻城下の「寺町」の中にあって「光松寺」から道路一つを隔てた北隣で、元和5年(1619)、高槻城主・松平家信が夫人の菩提を弔って以来、松平氏菩提寺として繁栄した。古くは「利生安国」から「利安寺」と称していた。◇高槻センター街・阪急高槻市駅から西方に約400mにわたって延びる、高槻市の中心的商店街であり、大型店舗が市の郊外に幾つも立地しているにも拘らず、「シャッター通り化」とは反対に、益々繁栄し賑わいを見せている。京都と大阪の将に中間にあってもその客足は遠のいていないようだ。
【10000分の1・地形図・高槻・楠葉:改編】

【参考文献】○高槻市ホームページ。
○高槻市教育委員会・解説掲示板.
○「高槻市史」、高槻市役所、1984.
【「関西地図の会」第230回行事:2013年2月9日実施】
- 2013/02/13(水) 14:11:22|
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●近江國野洲地域は「安」とも記され、古代には豪族「安」氏が支配していた地域と推定されており、縄文時代晩期に集落が営まれて継続的に発展した日本最大の「銅鐸」埋納の大岩山遺跡、その後形成され、古墳時代の首長系譜を追える大岩山古墳群を訪ねた。
・コース中の古冨波山・冨波・亀塚・円山・甲山・天王山・宮山2号各古墳7基と大塚山古墳は、昭和60年に「大岩山古墳群」として国史跡に指定されている。。 コース:
JR・野洲駅~古冨波山・冨波・亀塚各古墳~円山・甲山・天王山・宮山2号の各古墳~銅鐸博物館~福林寺跡・磨崖仏・福林寺古墳群~JR・野洲駅(約12 km)

【近江の古代豪族分布図:大橋原図】
◆古冨波山(ことばやま)
古墳 ・JR野洲駅から東北約1.5㎞にあるが、住宅地の真ん中にある児童公園のようになっている。古墳は削平されて草茫々であり、解説盤以外は何ら目印になるものは遺存されていない。
・明治29年に地元民により、墳丘上から3面の銅鏡[三角縁陳氏作四神二獣鏡・同王氏作四神四獣鏡・同三神五獣鏡]が発見された、同笵鏡は椿井大塚山・黒塚・福岡老司各古墳で確認されている。

【古冨波山古墳・平面図:野洲市教育委員会文化財保護課】
・昭和49年の現地調査では、径約30mの円墳と推定されており、古墳時代前期前半[3世紀後~4世紀前]に築造と考えられている。主体部の様態より「木棺直葬」方式の墳墓と推定されている。
【古冨波山古墳:完全に削平されている】◆冨波古墳 (野洲市冨波甲字亀塚)

【冨波古墳平面図・出土土器:丸山原図】
・古冨波山古墳跡から北方に県道を越えて約300mのところに、ここも削平されて公園にされているが、古墳の裾の外郭を盛土・芝草で舗装された遊歩道になっている平地と区別することにより、辛うじて嘗ての古墳跡であることを現出している。
・昭和57年に発見された全長42mの前方後方墳で、周濠を含むと全長約52m、後方部は22m長・約21m幅、前方部はほぼ直線的に開き、長さ20mm・幅19mと測られており、弥生~鎌倉時代の墓跡・集落跡のある「冨波遺跡」の一角にある。周濠のくびれ部付近で検出された井戸状遺構からは、近江特徴の古墳時代初頭の甕が出土し、また同じく東隅部から東海特徴の丹塗壺が出土している。
・当古墳は、大岩山古墳群[古冨波山・冨波・亀塚・大塚山・宮山2号・円山・甲山・天王山各古墳]8基の中、最も古い時期に造られたと推定されており、東海地方で展開された「前方後方墳」の形式であり、周溝墓と考える説もある。
【冨波古墳跡:削平して公園になっている】◆亀塚古墳 ・冨波古墳から東方約200m、古冨波山古墳から北北東約300mの小さな森になっているところに、
前方部は西向きであったが、既に削平された状態で遺存されている。
・当古墳は、全長が45m以上に達する「前方後円墳」、又はそれより古い形式の「帆立貝形古墳」と推定されており、後円部径33m・同高約5mと測られている。周濠からは形象埴輪・朝顔形埴輪・須恵器が出土していて、これらより5世紀末葉の築造と推定されている。

【亀塚古墳・復元平面図:野洲市教育委員会】

【亀塚古墳:かなり削平されている】◆甲山古墳 (小篠原・桜生(さくらば)史跡公園内)
【甲山古墳・復元墳丘】
・亀塚古墳から東南東約1㎞の、JR東海道線・東海道新幹線を潜り抜けた大岩山北端の桜生史跡公園内の北西端地域にある、径約30m・高さ8mの円墳で、内部主体は右片袖式横穴式石室で全長14.3m・玄室の長さは6.8m・幅2.9mである。石棺は馬門石製刳り抜き式家形[2.6m長・1.6m幅・1.2m高]であり、築造時期は6世紀中葉(石棺・須恵器より)と推定されている。
・出土した副葬品には、銀装鉾・装飾大刀・挂甲等の武器・武具、馬甲・鐘形鏡板付轡等馬具、金糸、金銅製金具、銅製金具、多数のガラス玉、玉類、鉤状鉄器(幕張用)など多種多数の物が検出されている。
【甲山古墳・玄室:野洲市】◆円山古墳 (小篠原・桜生史跡公園内)
・続いて、桜生史跡公園内に築造されている、径約28m・高さ約8mの円墳であるが、内部主体は片袖式横穴式石室で、石室全長10.8m・羨道長6.5m・玄室長4.3m・同幅2.4m・高さ3.1mと測られている。昭和16年に甲山古墳とともに史跡に指定され、同60年に「大岩山古墳群」として国史跡に再指定された。
・石室の特徴は羨道部床面に比し玄室床面が低く、家形石棺が宇土半島阿蘇溶結凝灰岩(馬門石)製刳り抜き式[2.9m長・1.4m幅・1.8m高]で、二上山凝灰岩製組合せ式家形石棺も埋納されていた。

【円山古墳・墳丘測量図:丸山原図】
・出土した副葬品には、冠・銀製空玉・多数のガラス玉等装身具・捩(れい:ばち)環頭大刀・鉄矛・鉄鏃・胡ロク等武器・挂甲等の武具・馬具・飾金具など多種多数のものがあり、6世紀初頭の様相をしめしており、古墳の築造も6世紀前半~中葉とすいていされている。
【円山古墳】◆天王山古墳 (小篠原・桜生史跡公園内)
・同じく、桜生史跡公園内にある、全長50mの「大岩山古墳群」で唯一の前方後円墳であるが、
平成9年の調査により、前方部が北向きで、西向きに開口する横穴式石室(全長約4.2m)を有し、後円部径26m・高さ8m・前方部幅24mと測られている。なお、前方部頂は標高120m、後円部頂は110mである。
・明治15年の記録には「天王山と称する双墓あり凹地より朱、勾玉、管玉の出土」と記されていて、後円部に石室の一部とみられる石材が露出していたようで、明治時代には朱・勾玉・管玉も出土したことが伝わっている。5世紀末~6世紀前半の築造と推定されている。
【天王山古墳:前方部より後円部を望む】

【天王山古墳・墳丘図:野洲市教育委員会】◆大岩山遺跡
・大岩山遺跡はJR野洲駅から東北東約1.5㎞で、前記の桜生史跡公園の南東約300mの位置にあり、明治14年(1881)に14点の銅鐸を地元民が発掘したことにより、一躍古代史の重要史蹟となった。しかしながら、14点もの大型銅鐸が一挙に発掘されたにも拘らず、地元・野洲には1点も遺存されていない。
・現状では、1点は行方不明で、他の2点は東京国立博物館(その1点は日本最大)、他は欧州諸国等へ移動している。それらの形式は全てが最も新しい「突線鈕式」段階で、12点は袈裟襷(たすき)文、1点は横帯文で、近畿式と三遠式の中間的作製時期に位置している。
・昭和37年の2回目の発見では、10点の銅鐸が新たに新幹線工事採土場から発掘された。形式は全て「突線鈕式」段階で、1点は大岩山山頂付近で発掘された「流水文」のある銅鐸である。

【最大銅鐸(複製):銅鐸博物館】

【大岩山銅鐸出土地点×:角原図】 ◆宮山2号墳
【宮山2号墳】
・「大岩山古墳群」中で最も東寄りの大岩山東北端に位置していて、「銅鐸博物館」に隣接している。
・昭和37~38年の調査により、南西に開口して、内部主体が両袖式横穴式石室を備えた径15m・現在の高さ3.5mの円墳で、石室全長は8.1mと判明した。
・玄室は長さ3.3m、幅1.8m、高さ2.5mと確認されており、石室羨道から外側へは外護列石が延び、石室には花崗岩製組合式石棺が納置されていた。

【宮山2号墳・石室・石棺】
・出土遺物は耳環・須恵器であり、築造は7世紀初葉(古墳時代後期)と推定されている。

【宮山2号墳・石室実測図:花田原図】 ◆福林寺跡
・大岩山古墳群、「銅鐸博物館」より大岩山を挿んで南方の反対側の南西斜面中腹にあり、JR野洲駅から東方約1.5㎞の位置にあり、中でも「磨崖仏」がよく遺存している。そこには「地蔵石仏」13体が浮き彫りにされており、その中でも観音像1体・如来像1体が室町時代初期の制作と推定されており市指定史跡に登録されている。
・発掘調査では平安時代の井戸や多数の瓦が検出されているが、寺院に直接関係する伽藍の遺構は検出されていなかったようだが、出土瓦には軒丸瓦の二形式、軒平瓦の四形式含まれていた。それらは白鳳~平安時代のもので、天武朝に創建され、16世紀まで存続したという文の記録とほぼ一致しているようだ。寺院推定地背後の山裾には、複数の仏像を刻んだ「磨崖仏」がみられ、制作年代は室町時代頃のものが多いようだ。

【福林寺跡磨崖仏】 ◆まとめ
・いくつかの古墳が市街地化の波に呑まれて公園化されてしまっている。野洲市の田園地帯でも斯様な状況であるから、大都市近郊における古墳等古代の遺蹟の保存状態が十分でないのは、残念ながら当然ようである。この野洲地域の古墳時代の支配者たちの墳墓は、大和王権と直接的関係を保ちながら次の順序で築造されたものと推定されているようである:冨波⇒古冨波山⇒大岩山二番山林⇒大塚山⇒亀塚⇒(林ノ腰)⇒越前塚古墳⇒円山⇒甲山⇒宮山1号⇒宮山2号の各古墳。
[参考文献] 1. 野洲市教育委員会文化財保護課:「大岩山古墳群」、2008。
2.大橋信弥:「古代の近江」・大橋信弥・小笠原好彦編『新・史跡でつづる古代の近江』、ミネルヴァ書房、2005.
3.角 建一:「近江における前方後方形の周溝墓」・大橋信弥・小笠原好彦編『新・史跡でつづる古代の近江』、ミネルヴァ書房、2005.
4.花田勝広:「野洲川下流域の古墳と豪族」・大橋信弥・小笠原好彦編『新・史跡でつづる古代の近江』、
ミネルヴァ書房、2005.
5.角 建一:「三角縁神獣鏡とその復元」、野洲町立歴史民俗資料館、2002.
6.花田勝広:「古代安の古墳群」、野洲町立歴史民俗資料館、1999.
7.丸山竜平:「原子・古代の野洲」、『野洲町史』、1983.

【野洲古墳分布図:野洲市】【2012年5月19日探訪】
- 2013/02/04(月) 16:29:56|
- 紀行
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